福留孝介選手は1998年に中日ドラゴンズに入団し、2021年シーズンで44歳を迎えます。
強打の外野手として数多くの打撃タイトルや日本代表での活躍、メジャーリーグにも挑戦するなど素晴らしい実績を残してきました。
2020年オフに古巣のドラゴンズに復帰し、プロ野球生活も晩年にきています。
そんな福留選手の輝かしい球歴を振り返りたいと思います。
福留孝介選手のプロ入りから現在まで
まずはプロ入りから現在に至るまでの球歴です。
プロ入りから中日時代
福留選手はPL学園から社会人の日本生命を経て、1998年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団しました。
即戦力として1年目からレギュラーを掴みチームのリーグ優勝にも貢献。
しかし主にショートを守っていましたが、守備には難がありその影響からかその後打撃不振に陥ります。
打力を生かすために2002年外野手に転向、打撃が開花し首位打者を獲得、一気にリーグを代表するバッターになりました。
以降長打力と確実性を兼ね備えた打力で多くの打撃タイトルを取ります。
最終2007年までに
- シーズンMVP1回
- 首位打者2回
- 最高出塁率3回
- ベストナイン4回
- ゴールデングラブ賞5回
などを獲得。
日本球界屈指の野手としてメジャーリーグに挑みます。
メジャー挑戦
2007年12月にシカゴ・カブスと4年契約総額約53億円で契約合意しました。
2008年開幕戦でスタメン5番ライトとしてメジャーデビュー。
初打席で初ヒットを記録、9回には同点のホームランを放ち衝撃のデビューを果たしました。
しかし打撃に苦しみ1年目の成績は150試合に出場しましたが打率3割を大きく下回る数字で期待に応えることができませんでした。
2年目以降も目立った数字を残すことができず、2011年シーズン途中、インデアンスにトレード移籍になりました。
2012年にシカゴ・ホワイトソックスと契約しますがスタメン出場は限られ主に代打守備固めでの出場になりました。
結局思うような活躍ができず6月に自由契約になり7月にヤンキースとマイナー契約をします。
シーズン終了後に自由契約となりました。
日本球界復帰~阪神時代
2012年オフに日本球界復帰の意向を示し、阪神タイガースと契約します。
福留選手とっては地元関西でのプレーとなり、入団の決め手にもなったみたいです。
移籍1年目はライトのレギュラーとして起用されます。
しかしケガなどがあり2年目までは結果が出ませんでした。
2015年からは調子を取り戻し以降2018年まで規定打席をクリアしチームの中心として活躍します。
2019年、2002年は若手の台頭でスタメン出場は減りましたが、代打の切り札として勝負強い打撃を魅せました。
福留孝介選手の特長、日本代表での活躍
そんな福留選手のこれまでの成績などを見ていきます。
通算記録、特長
福留選手は高い打率を残しながらも長打力も高く、選球眼も優れた非常にレベルの堅い打撃が特長です。
ドラゴンズ時代は首位打者2回を含む打率3割以上が4回、本拠地が広いナゴヤドームにも関わらず2度の30本塁打以上をマークしました。
また二塁打の数も多くて2006年には当時のセリーグ記録の47本打っています。
守備ではコンバート後は主にライトを守っていましたが強肩で守備範囲も広く、ゴールデングラブ賞も5度獲得しています。走攻守3拍子揃った打者でした。
日米通算で2000本安打を記録、ホームランも300本以上さらに特筆すべきは日米通算1000個以上の四球を選んでおりこれは歴代5位に相当する記録です。
福留選手の選球眼の高さを象徴しています。
日本代表成績
福留選手は日本代表としても多くの大会に出場しています。
プロ入り前の1996年、当時19歳でアトランタオリンピック出場。2本のホームランを放って銀メダルを獲得しています。
2004年はプロ野球選手としてアテネオリンピックに出場し銅メダルを獲得しました。
2006年、2009年には2大会連続でWBC日本代表に選出し優勝に貢献しました。
福留孝介選手の野球人生まとめ
こうしてプロ入り後の福留選手を振り返るといかにすごい選手だったのか分かります。
全盛期のドラゴンズ時代にはジャイアンツの松井秀喜選手にも見劣りしない外野手だったと思います。
メジャー時代には本来の力が出せませんでしたが、日本復帰後タイガースではキャプテンを務めるなど若手のお手本としてチームを引っ張っていました。
日本代表にも多くの大会に選出されまさに2000年代を代表するプレーヤーですね。
今年は古巣復帰しさすがに常時スタメンとはいきませんが代打で頑張っています。
最後にもう一花期待したいですね。